Wakiya 脇屋友詞 伝統と創作

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シェフ牛をご存知ですか?

〝シェフ牛〟とはどんな牛か。皆さん「?」と思うだろう。『一般社団法人全日本・食学会』が3カ年事業として取り組んだ、ジャージー種やブラウンスイス種などの乳用種の雄子牛に新たな市場価値を生み出そう、という一大プロジェクト。正式には、「シェフと支える放牧牛肉生産体系確立事業」という。ジャージー種やブラウンスイス種は、ホルスタイン種に比べて太りにくい体質で、さらに牛肉の評価が確立されていないため、コストをかけて育てても採算が合わず生産体系が確立されていなかったそうだ。この課題を解決するために育て方を工夫し、さらに肉としての付加価値を高めるために、食学会に所属する料理人たちが、肉の熟成方法やレシピ開発などに取り組んだのである。

シェフ十数人が集まり、シェフ牛を放牧する八丈島を訪ねた時のこと。一同、山頂へ向かって20分、中腹でパンパンと手を叩くと、影も見えなかった牛たちが「ンムォー」と声を上げて現れる。実にのどかな風景である。なぜ手を叩く音でやってくるかというと、基本的には放牧なのだが、まぐさを与える時にこうして牛たちを集めているそうだ。「美味しいまぐさを食べられる」と、どんなに遠くにいてもその音を聞き分けてやってくるという牛の習性にびっくりである。

牧場を見学してホテルに戻り、夕食前の散歩に出かけた。僕は毎日1万5000歩を目指しているので、広い国道を一人でとぼとぼ歩いていると、「脇屋さーん!」と車から手を振る人がいる。なんとこれから牛のお産があると事務局の人が教えてくれた。海辺の放牧場に駆け付け、そこからさらに歩くこと15分、雑木林の中に母牛が横たわっている。聞くところによると、外敵から身を守るために、母牛が自らなるべく平らな木の多い場所を選んで自然分娩するそうだ。30分ほど待っていると、「ムゥウウー」と大きな声がした。声は出せず、心の中でヤッター!と叫ぶ。皆一様に感動感激している。人間も動物もすごいな、自然の中でちゃんと母性という本能が働き、子を産み、育てていく。だからこそ、我々は命あるものを大切に扱い、その命をいただくことに感謝する。料理人であれば、素材をどのように加工、熟成、調理、味付けをし、最大限に美味しくできるかを勉強、研究を重ね、それを多くの人に知っていただかなければならない。

その夜、役場の方とシェフ牛についてディスカッションをしたあと、皆で心のこもった牛肉の料理をいただいた。たたきや煮込み、揚げ物、炙り焼きなど、淡白でありながら奥行きのある味で、美味しさがじゅわっと広がってくる。料理人の性なのか、肉を見ると「俺が焼く!」と『ポンテベッキオ』の山根大助シェフが立ち上がり、自ら塩をして焼き始めた。僕も同じ気持ちだったが、そこはぐっとこらえ山根シェフが焼いた肉を食べる。部位ごとに肉を味わい、真っ赤な炭を眺め、皆で酒を酌み交わすと、この上なく幸せな気持ちになってくる。

八丈島のシェフ牛に感謝し、これからも食を通して世の中のお役に立てたら、と思う。

「味の手帖」(2020年11月号掲載)
イラスト=藤枝リュウジ

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